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東京地方裁判所 昭和35年(ワ)7716号 判決

東京都文京区駒込神明町二七五番地

原告 福島等

右訴訟代理人弁護士 安達十郎

以下四〇名(別表記載のとおり)

被告 国

右代表者法務大臣 高橋等

右指定代理人法務省訟務局第二課長 河津圭一

同法務事務官 宇佐美喜一

東京都武蔵野市吉祥寺七九八番地

被告 飯守重任

右被告両名訴訟代理人弁護士 田中治彦

環昌一

西廸雄

右当事者間の昭和三五年(ワ)第七七一六号損害賠償請求事件について、当裁判所は、つぎのとおり判決する。

主文

原告の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一、被告らの本案前の抗弁ならびにこれに対する原告の反論

(一)  被告国の主張

本件訴訟における審判の対象が東京地方裁判所判事たる被告飯守重任のなした法廷等の秩序維持に関する法律にもとづく原告に対する監置の決定およびそのための保全処置である同法三条二項による拘束が違法であるか否かの点にあることは、原告の主張自体によつて明らかである。

しかし、右監置の決定に対しては、原告より東京高等裁判所に対し抗告がなされ、東京高等裁判所第四刑事部は昭和三五年八月一八日に右抗告を棄却する旨の決定をなし、これに対しさらに原告から最高裁判所に対し特別抗告の申立をしたところ、同年九月二一日最高裁判所第一小法廷において右特別抗告を棄却する旨の決定がなされているのであつて、これにより右監置の決定が違法でないことについては終局的に確定しているものである。

国家賠償法一条一項は「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行なうについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる」と一般的に規定していて、特に裁判官の行なう裁判を除外してはいないから、一見裁判官の行なう裁判は、すべて国家賠償法の対象となり、民事訴訟により常にその違法性の有無を判断することができるかのようにみえるけれども、しかし、そこには裁判制度の本質より自ら一定の限界が存することが認められなければならない。上訴制度の認められている一定の訴訟手続において、ある審級に係属している事件につきその事件を完結する終局的な裁判(終局判決ないしそれに準ずる決定)がなされた場合に、右終局的な裁判を違法として争うためには、その訴訟手続において認められている不服申立の方法としての上訴の手続のみによるべきものであつて、上訴することなく右終局的裁判が確定した場合および上訴手続によつてもついにその不服申立が認められず、法律上さらに上訴をする余地がなくなつた場合には、原裁判の違法ならざることが終局的に確定し、再審ないし非常上告により原裁判が変更されないかぎり、当該訴訟の当事者はもはや他の訴訟手続においても原裁判の違法を主張することは許されない。けだし、確定した終局的裁判は国家の裁判権の行使としての公権的法律判断によつて紛争を終局的に解決し法的安定を実現するものであるから、それは本質的に不可争性のものでなければならないからである。

本件監置の決定は、法廷等の秩序維持に関する法律に基づくものであつて、それは従来の刑事的行政的処罰のいずれの範疇にも属しない特殊の処罰であり、その手続は刑事裁判に関し憲法の要求する諸手続の範囲外にある極めて特殊な手続であるが、その制裁については、同法において抗告および異議の申立(五条)ならびに特別抗告(六条)による上訴の途が開かれている。本件においては右手続による終局的裁判たる監置の決定につきなされた抗告および特別抗告が前記のようにいずれも棄却され、右監置の決定が違法でないことについては、いまや終局的に確定しているのであるから、原告が本訴においてその違法を主張することは許されないものといわなければならない。

もとより、民事訴訟において刑事判決の理由において認定された事実に反する事実を認定することを妨げないということは、古くから確立された判例であるけどれも、それは事実の認定の面に関してのみ言えることであつて、民事訴訟において、確定した刑事判決そのものの違法を主張することを許しているものではない。その理由は次のとおりである。

(イ)  何らか不法の行為があつた場合、その責任は、一面全体社会たる国に対しその構成員たる立場に基づいて刑事的に、他面行為の相手方に対し私人たる立場に基づいて民事的に、同時に発生することがあり得る。また右各責任の要件たる社会的事実の存否は、訴訟上の一定手続、一定の立証法則によつて認定せられるものであるところ、刑事と民事とでは事件の目的、性質が異るによつて、右の手続、法則も自ら別異である。したがつて、ある不法行為の同一の事実について刑事訴訟と民事訴訟とが並んで行なわれることのあるのは当然であるとともに、各訴訟は当事者、弁論の建前、証拠法則、証拠方法等を異にするがためにその裁判の事実認定において一致しないことのあるのも異とするに足りない。そしてそれが民事裁判において刑事裁判の認定に反する、事実認定をなし得る所以である。

(ロ)  しかし、右のことと、ある裁判がなされた場合に、別に民事訴訟を起してその別の手続で右裁判の当否を争い得るかどうかということとは全く別個の問題である。すなわち、この後者の問題は、右(イ)のように一個の実体の両面についてその法的評価を、それぞれに適応するように定められた別異の手続によって行なうという関係ではなくて、右の一定の手続によって現になされた裁判についてそれが当該手続上適法であつたかどうかを他の事件手続によつて吟味するという関係である。したがつて、それは実質上同一判断に対し重複して訴訟手続を発動し二重の国家判断をすることとなるものであるから、それが許されるべきものかどうかは、訴訟制度ないし裁判の目的、性質に照らして慎重にこれを検討しなければならないものと考られる。しかるところその趣は民事判決と刑事判決とで全くは同一でないので、以下民事判決と刑事判決とに分けてこれを考えてみる。

(1) 民事事件の判決はこれによつてその事件の当事者間における一定の権利または法律関係の存否を確定するものであり、これに対して右判決を違法として国家賠償を求める訴は、右当事者と国との間において事件当事者間のそれとは別個の権利である国家賠償請求権につきその存否の確定を得ようとするものである。そこで民事判決に違法がある場合、事件当事者間における権利または法律関係の存否の確定の正しさを求めるためにその事件の手続内で不服申立(上訴)を行なうことのできるのは当然として、それと別個に右誤判という不法行為による損害の賠償を求めるために国を被告として民事訴訟を提起し、その手続において右裁判の適法違法につき審理判断を求めることは、右裁判の確定の有無にかかわらず、何ら背理となるものではないとの見解が生ずる。しかし、このような考え方には疑問がある。何となれば、右両個の訴訟はその訴訟物こそ別異であるが、審理の眼目は原裁判の適法違法を論ずるにおいて同一であるからである。すなわち、問題の民事判決の適法違法は元来その事件の上訴審手続で審理判断せられるべき事項に属する。しかるに、後者の民事訴訟で原判決の適法違法を論ずべきものとする場合、その資料とせらるべきものについて考えてみると、それは問題の性質上当然原判決以前の法廷資料に限られ、したがつて、それは必然右上訴審手続での判断資料の範囲を出ないこととなる。然るときは民事判決がその事件の手続上すでに適法として確定した場合において、その適法違法をさらに別訴により争うことを認めることは、国家機関(裁判所)が全く同一の権利または法律関係の存否について二重の審理手続を行ない、その結果相矛盾した国家判断をなすおそれを生ずることとなるものであつて、かようなことは法の容認し得ないところであると考えられる。おもうにある権利または法律関係の存否は訴訟上これについて利害関係の対立する者すなわち事件の当事者が裁判所に対して主張、立証を行ない、裁判所がこれを審理して要件事実の存否、法律の適用につき判断することによつて確定されるが、この場合訴訟には審級の制度があつて、当該裁判に不服のある当事者はその事件の訴訟手続上上訴によつてその是正を求めることができるとし、また裁判の当否は右の審級制に基づく一定のルールによつて究極的に批判決着をつけられるべきものであり、それが訴訟の制度の建て方である。したがつて、すでにある判決が右審級制により不可争の段階に達して確定をみたうえは、その判決によつて定立された具体的規範内容はその事件についての最終的解決でなければならないとともに、その確定した裁判の公権的判断はその事件に対する国家判断としては唯一不動のものとみなされなければならないものというべく、これに反して後日別個の訴訟をもつて(その事件の当事者、訴訟物は異るにもせよ)さきの確定判決をさきの一定の当事者間の一定の事件につき一定の資料に基づいてなされた裁判としてこれを再吟味し、よつてこれを違法なりと判断するようなことがあるとすればその結果は明らかに国家判断の矛盾抵触を生じ、法的秩序、法的安定を紊ること著しいものがあり、これをもつて訴訟制度の精神に適合するものとは到底いいえないものと考えられる。(かように確定の民事判決についてその適法違法を他の事件の訴訟で再理しえないということと、すでに確定判決のある一定の権利または法律関係の存否についてその確定判決の既判力を受けない当事者間で別個の訴訟によりこれを抗争しうることとは、事柄を異にし、何ら矛盾するものでないことは多言をまたないであろう。)

(2) 右に述べたことは、確定した刑事判決についてもいいうるところであるが、刑事判決については、以上のほかにさらに考慮されるべき事項がある。民事事件の訴訟物は当事者間における一定の権利または法律関係の存否であるが、これに対して刑事事件の訴訟物は国と被告人との間における処罰権(刑罰権)の存否である。そして、民事事件のために民事訴訟手続があるのに対して、刑事事件について民事訴訟手続とはその性格、理想を異にする刑事訴訟手続が定められており、したがつて刑罰権の存否はその認定のために最適と定められたこの刑事訴訟手続によつてのみその認定がなされるべく、またその認定に対する不服はその手続内において上訴により処理されるべきものである。そして有罪の判決が右手続上不可争となつた場合においては刑罰権の存在はここに実体的に確定し、動かし得ないものとなるものであつて、この場合このすでに確定した有罪判決について、別に国を被告として右裁判の違法を主張する民事訴訟により、本来刑罰権の認定を目的として構成されたものでない民事訴訟手続における当事者の主張立証に基づいて、その判決が刑事事件の手続上適法になされたかどうかを再理し、もつて右判決を違法(すなわち当該刑罰権の要件がなかつたもの)と認定するようなことは(それが右(1)に述べたように国家判断の矛盾抵触を生ずる関係にあることは勿論)制度の観点上手続的に不合理であるばかりか、何よりも国家と被告人との間において既に実体的に確定されている刑罰権の存在にもとることとなる点において甚しく不条理たるを免れない。すなわち、有罪判決の誤判を理由とする訴は(それが一審有罪、二審無罪で確定したときの一審判決の違法を論ずるような場合においては、通例その判決自体により被告人が一時受けた損害の賠償を目的とするものであるが)それがすでに確定した有罪判決の違法を論ずる場合においては、有罪判決自体と受刑とによる心的物的損害に対する国家賠償を求めることをもつてその請求内容とし、したがつて、その損害を賠償し、原状回復をするということは、その効果においてとりもなおさず科罰を取り消すことにほかならない。しかし、刑罰権の存否はひとり刑事訴訟手続によつてこれを定め得べきものであつて、確定の有罪判決が現存する以上、刑罰権もまた現存し刑罰権の存する以上処刑のなさるべきは当然の要請であり、また科罰はその本質上被告人自らこれを受忍すべきが理の当然であつて、科罰の受苦を他に転嫁するようなことは科罰の本旨にもとりその容れることのできない観念であること明らかである。したがつて、有罪の判決があり、それが確定した場合においてその判決を違法とし、実質的にこれを無視し、科罰の回復をなすこととなるような民事判決は法の精神に合致しないものというべく、右のような民事訴訟は到底これを容認しないものといわなければならない。

(ハ)  以上確定有罪判決について述べた趣旨は法廷等の秩序維持に関する法律上の制裁裁判についても当てはまる。右制裁裁判は、その本質を刑事罰と解するにもせよ行政罰と解するにもせよ、それが科罰を目的とする公権的作用であつて、これにより実体的に国家の処罰権を確定するものであることにおいて有罪判決とその実質が同一であり、また右裁判に対する不服の処理についてはその科罰の原因が社会の紛争を解決し、秩序を保つための法廷の場における法廷に対する公然の事犯であることに鑑みて、そのための特別の手続が定められ、原裁判の適法違法について同法の理想に基づいた審査手続が構成されている。したがつて、右制裁裁判に違法があるとする者は右所定の手続によつてのみこれが是正を求むべく既に制裁裁判が確定した場合において自己の主観上右手続が不服審査手続として不充分であるというような理由により、右法の精神を度外視して、民事訴訟により原裁判を違法とする認定を求め、制裁裁判による受苦の回復を請求するようなことは到底認め得ないところである。何となければ、右のようなことが手続的に不合理であり、かつ、すでに確定の制裁裁判により実体的に確定した処罰権の存在と相容れないものであつて、これを容認し難い筋合のものであることは(ロ)(2)に述べたところと同様であつて、もし右手続とは異質の民事訴訟手続の審理によつて右確定制裁裁判を批判し、その効果を覆滅し得るものとすることは法廷秩序維持の裁判の目的は辱められ、法の精神は貫徹するに由ないこととなるからである。

右述のような理由により、原告は本件民事訴訟によつて本件確定制裁裁判の違法を主張することはできず、したがつて、右監置の決定が違法であることを原因とする原告の本件訴は事実審理をまつまでもなく排斥さるべきことが明らかである。

また、原告は右監置の決定のための保全処置たる拘束につき、その違法を主張しているが、同法三条二項は「前条第一項にあたる行為があつたときは、裁判所は、その場で直ちに、裁判所職員又は警察官に行為者を拘束させることができる」と規定し、拘束のための要件と監置の決定の要件とは同じものであるから、前記のように監置の決定が違法でないことが確定している以上、その保全処置としての本件拘束は当然適法というべく、これを本訴において争い得ないことは前同様である。よつて、本件拘束が違法であることを原因とする原告の訴もまた失当たること明らかである。

(二)  被告飯守の主張

原告の本訴請求が、昭和三五年八月八日に東京地方裁判所において裁判官たる被告飯守により法廷等の秩序維持に関する法律に基づいて言い渡された制裁裁判の当否を対象として提起されていることは、その主張自体から明白であるが、同法に基づく制裁は、従来の刑事的行政的処罰のいずれの範囲にも属しない特殊の処罰であつて、裁判所または裁判官の面前その他直接に知ることができる場所における現行犯的行為に対し、裁判所または裁判官自体によつて適用されるものであることは、すでに最高裁判所の判例として確立されているところであるから、本訴請求の適法性についても特段の考察を必要とするものである。すなわち、とくに本件との関係において必要なかぎりにおいて、法廷等の秩序維持に関する法律に基づく制裁の裁判について述べると、この制裁は、原則として裁判所又は裁判官の現認したところに基づいてなされ、証拠調の手続は例外的補充的に行なわれるにすぎない(同法四条)。要するに、裁判所等がその威信の侵害に対して広汎な裁量権を行使して迅速に自己防衛機能を果しうることが期待されている。この機能は司法の本質と密接不分離のものであり、またそのためにこそこの手続の特色が是認されうるのである。

したがつて、この制裁の裁判に関しては、直接の被侵害者である当該裁判所又は裁判官の認定が他の手続における以上に重要性を有することは否定しえないところであり、この趣旨は、さらに制裁の裁判に対する不服申立に関しても認められるのである。すなわち、同法五条一項、四項および六条の規定において明らかなとおり、制裁の裁判に対しては、法令違反を理由とするものに限つて不服の申立を認め、事実認定の当否については不服を申し立てることができないのである。これは、特定の行為に対して制裁が科せらるべきであるかどうかは、その行為の行なわれた時と場所における具体的情況、雰囲気等に対する直接の体験を基礎として始めて適正を期しうると考えられたことによるとともに、さらには原審の裁判官を抗告審において証人の地位に立たせることが適当でないことが考慮された結果であることは立法の経過に照らして明らかである。同法のこのような明白な趣旨および同法制定の背後にある英米法における法廷侮辱に関する制裁手続の実情を考慮すれば(英米法においては、裁判所侮辱に不服申立が認められるのは民事侮辱に限られ、本法のような直接侮辱についてはこれを許さない。)この種の制裁の裁判の当否については、法令違反に関するものを除き、原則として当該裁判所等の専属的判断に委ねられているものということができる。

而して同法の右のような趣旨は、制裁の裁判の当否を本件のように他の手続において攻撃する場合においても、当然考慮されなければならない。すなわち本件は、制裁の裁判に関する事実認定の当否を、民法上の不法行為責任又は国家賠償責任の追求という形式をかりて達成しようとするものであつて、もしこのような請求が許されるとするならば、同法が上級審裁判所さえ行使できないものとした権限を、他の裁判所において行使できることになり、同法において特殊な考慮が払われている趣旨を全く没却するに至り、その不合理なことは明白である。

もとより、同法の制裁の裁判に関連して、当該裁判官を相手方とする民事上の責任または国家賠償責任に関する請求が許されない旨の明文の規定は存しないが、一国の司法体系はこれを合理的に調整して解すべきものであつて、単に規定の不備を理由として、その本来の趣旨を没却することは不当である(他の手続における当否の判断は、制裁の裁判そのものの効力を左右しないからさしつかえないと解することは、形式論理上可能であるが、この結論が法の期待する他の要請を無にすることとなるにおいては、妥当な解釈とはいえない。)。この点に関しては、とくに西欧諸国において裁判作用による不法行為の成立を認めないのが原則であること、また同じく司法行為といつても当該手続内で特に不服申立方法が設けられ、確定の公定力が与えられる裁判について(とくに本件においては原裁判に対する抗告および特別抗告がすべて棄却されて、その適法性が確定されている。)、その当否をその裁判官等を相手方として他の手続において別個に検討する余地を認めることが、司法の系列的組織を害し、甚だしく不当な結果を招来することを考えれば、裁判作用全般について、当該裁判官又は国を相手方とする本件のような請求を許さないものと解すべきである。とくに本訴においては他の裁判所のなした裁判作用そのものが審判の対象となる点において他の裁判所の審判の対象に対して別途の法律評価を加える場合と本質を異にする。従来わが国において強制執行手続における裁判、勾留に関する裁判などについて裁判官の不法行為責任を認めた判決例があるが、これらは、その当否はしばらく措き、いずれも行政的性格を有する裁判所の判断作用に関するものであり、本件のように純粋に司法的性格を有する裁判とその性格を異にするものである。

なお、本件制裁裁判がすでに上訴の手続を終了して確定していることは明らかであり、本訴請求は、確定裁判の当否そのものをさらに別個の手続において攻撃することに帰する。この点に関しては、すべて被告国の主張を援用する。

よつて原告の本件訴は不適法であるからこれを却下すべきである。

(三)  原告の反論

(イ)  被告らは一定の訴訟手続において裁判を違法として争うためには、その訴訟手続において認められている不服申立の方法としての上訴のみによるべく、その裁判が確定した以上は、再審ないし非常上告により原裁判が変更されない限り、他の訴訟手続においても原裁判の違法を主張することは許されない旨を主張する。

しかしながら、被告らの主張するようなことは現行法の建前として何ら理由のないことである。もし原告が法廷等の秩序維持に関する法律による監置処分の決定を不服とし、その決定の取消変更を求めて民事訴訟を提起したというのであれば、これは不適法である。また決定が確定したのちに再審等によることなく原決定の取消変更を求めるのであれば、被告ら主張のようにこれは不適法である。ところが本件訴は監置処分の取消変更を求めるものでなく、逆にその確定したことを前提とし、右決定による処分により原告が違法に権利を侵害せられたとして、その損害の賠償を求めるものである。とくに再審により原裁判の取消がなされない限り、原決定の違法は判断し得ないと被告らは主張するけれども、それは当該手続についてのみそういえるだけのことであつて、これとは別個の手続において原裁判に関与した裁判官が職務に関し犯罪を犯したという事実があるか、不法行為が存するか否かの事実を判断し、またはその法的評価をなすのは再審の前になし得るというのが法律の建前である。すなわち民訴法四二〇条一項四号、刑訴法四三五条七号によれば、裁判官の職務に関する犯罪を認定した確定判決は再審の理由とせられるというのであつて、再審があつて始めて裁判官の犯罪行為を判断し得るのではない。もつともこの場合はその犯罪行為認定の確定判決により直ちに原判決が違法であることを宣言するものではないが、すくなくとも原裁判に関与した裁判官の違法行為の存否は判断し得るのである。本件においても、単に原決定を違法とする宣言を求めているのではなく、原決定に関する不法行為の存否の判断を求めているのであるから、これが再審による取消の後に訴求し得るものとなす理由はなにもないのである。

性質を異にする二つの訴訟手続において前訴訟の判断が後の訴訟を拘束するという法理は存在しない。刑事訴訟と民事訴訟とにおいて別個の事実を認定することは一向に差支えない。もつとも判例中には民事手続において形成判決のなされたときには刑事手続においてはこの形成の法律関係に拘束されるとなしているもの(盛岡地裁昭和三〇(わ)二三二号、昭和三一(わ)一七四号)があるが、この結論に従うとしても本件には何ら消長はない。刑事手続と民事手続とは事実の認定についてのみ異つた判断が許されるという考えもまた誤りである。事実の認定は法的評価の前提にすぎないのであるから、相異つた事実認定が許されるということは、当然事件についての異つた法的評価がなされうることを意味するのである。判例の立場も刑事手続と民事手続において異つた法的評価を禁止しているわけでもない。理論的にも別個の手続において事実認定については異つた判断は許されるが、法的評価については許されないとして両者間に区別をつける何らの理由はない。一の事件につき他の事件の事実認定のなされた裁判が当該手続にとつて事実認定の一資料にすぎないと同様、他の事件の法的評価は当該訴訟において一つの参考意見となるにすぎない。

本件においては、被告飯守は誤つた事実認定を基礎に原告に対し法廷等の秩序維持に関する法律を発動したのである。このことは、被告飯守の下した決定理由中には必ずしも具体的事実が明確にされていないが、同被告が誤つた事実認定から出発していることは明らかである。事実誤認は同法における上訴審の審判の対象となり得ないものであるため、上訴審では再検討されてもいない。

(ロ)  被告らは、また裁判作用による不法行為の成立を認め得ないと主張する。

憲法一七条は、何人も公務員の不法行為により損害を受けたときは、その賠償を請求し得るとし、国家賠償法も同様の規定を設けている。その間裁判作用による不法行為に関する免責規定は何ら定められておらず、またそのようなことは予想されていない。それは被告らの主張するような法の不備でなくして、きわめて当然のことである。けだし、警察官が職権を乱用して違法に逮捕することが不法行為として損害賠償の対象になり得るが、裁判官による違法な拘禁は国家賠償の対象たり得ないとして区別する理由は何もないのである。国家賠償法は憲法一七条を承けた規定であるが、憲法は国民主権主義に基づき主権者たる国民が公務員の不法行為により損害を受けた際救済しようとするものであつて、公務の種類により損害賠償請求権に区別をつけることは始めから予定していない。立法によつては、ドイツ民法のように裁判による不法行為は裁判官が刑事手続により処罰されるべき場合にのみ賠償を請求し得るとして裁判作用による不法行為について特則を設けている例はあるが、わが憲法はこのような差別を許さないのである。従来の裁判による不法行為の成立を原因とする訴訟の多数の判例も、司法作用だからとして国家賠償法の適用を区別したものは全くないのであつて、裁判官たりとも職務を行なうについて故意または過失により違法に他人に損害を加えた場合に、国がこれを賠償する責任を負うのは、国家賠償法制定以来確定された判例であり、法廷等の秩序維持に関する法律の適用につきこれを除外する理由は毛頭ないのみか、裁判官自身が原告でかつ審判者である特異な制裁裁判においては、却つて他の一般の裁判作用より特に国家賠償法の適用が必要であるといえる。

被告らの右主張はなんら法律上の根拠を有しないものであつて、現行憲法下の法律体系に適しない立法論というほかないものであるから、速やかに本訴の実体につき審理をすべきである。

二、当事者双方の本案の申立

原告は、「被告らは各自原告に対して金七五万円およびこれに対する昭和三五年一〇月四日から(ただし、被告国においては同年一〇月二日から)支払ずみまで年五分の金員を支払うべし。訴訟費用は被告らの負担とする」との判決ならびに右第一項につき仮執行を求め、被告らは主文同旨の判決を求めた。

三、請求の原因

(一)  原告は東京弁護士会所属弁護士、被告飯守重任は被告国の東京地方裁判所判事であるところ、昭和三五年八月八日東京地方裁判所刑事第一四部法廷(東京簡易裁判所庁舎民事二号法廷)において被告人長谷川浩に対する暴力行為等処罰に関する法律違反等被告事件につき勾留理由開示期日が開かれ、同判事がこれを担当して列席し、原告は弁護人として他の弁護人岡林辰雄、安達十郎らとともに出頭した。

(二)  勾留理由の開示に先立ち、主任弁護人岡林辰雄は「八月一日付新聞夕刊において同判事は、公安労働事件において被疑者、弁護人は傍聴人相手のアジ演説をして権利を乱用しているから、これらは傾聴の必要はなく、法を厳しく適用してこの権利乱用に対処せねばならぬとのべられているが、われわれはかつて法廷において政治演説を行なつたことはなく、事件がきわめて政治的にうたれている場合、その政治的弾圧の性格と状況、捜査機関の法の乱用を抗議し、裁判所がこの乱用をとがめて被疑者の基本的人権を守るよう裁判官の職責に訴えてきたにすぎない。裁判官は過去の一切の偏見を捨て憲法、刑訴法の本来の趣旨に帰り、訴訟関係人の質問に答え、またその意見を充分きいて公正な裁判をされるよう願つてやまない」旨を述べた。これに対し、同判事は「開示のやり方についてはいろいろの見解があるが、当裁判所の見解と異るならば、法の定める不服申立の方法でやるべきである。政治的な逮捕と考えるかどうかは世界観の問題に帰着する。今まで自分の経験によると、煽動的な意見陳述が行なわれてきた。政治的逮捕であることを証明する材料があるならば、疏明資料として開示法廷外において出すべきである。被疑事実の疏明資料を告知しないのは捜査の妨害となるからである」旨のことをのべた。

つづいて勾留理由の開示に入つたが、勾留状記載の被疑事実の読み上げと勾留に関する適用条文が示され、その証拠は検察官提出の資料により認められると述べたのみで、何ら具体的な勾留の理由ないし必要性は開示されなかつたが、そこで示された罪名は当日既に起訴されていた被告人長谷川浩の起訴状に記載されていない罪名であつた。しかして勾留の理由ないし必要性に関する質問不許に対する異議が申し立てられたが棄却された。このとき安達弁護人が発言を欲したが、同判事が主任弁護人以外の者の発言を許可しなかつた。よつてやむなく主任弁護人岡林辰雄は安達弁護人の述べんとすることを適確に裁判所に伝え得ないと判断し、自ら主任弁護人を辞し、被告人、弁護人合意のうえ安達弁護人が主任となつた。安達弁護人は検察官に質問を欲した。安達弁護人は検察官に対する質問を許されんことを同判事に求めた。同判事は検察官に答える意思があるかないかを問うたところ、検察官は質問にもよるが答えられるものであれば答える旨を述べ、安達弁護人に対しどんな質問ですかと問い、質問によつてこれに応じる意思を示した。安達弁護人は検察官に対し抽象的にはいえないから一つづつ質問をしたいと答えたところ、同判事は弁護人の質問はいたずらに訴訟を遅延させるものと認め禁止する旨のべた。これに対する異議は却下された。引き続き同判事は意見陳述は口頭によらず書面に記載して提出することを命じた。この時岡林弁護人が起ち上り同判事に対する忌避を申し立てた。その理由は同判事は逮捕が政治的であると考えるか否かは世界観の問題である旨のべられたが、同判事は事実によらず世界観に基づいて裁判しようとしている。同判事は世界観を基準とし裁判をしようとするものであつて偏見をもつてこの裁判に臨んでいるという趣旨のものであつた。つづいて寺本弁護人が意見陳述を公開の法廷でやらないのは、不当に憲法、刑訴法を被告人に不利に解釈しようとしているとの理由で忌避を申し立てた。

そこで、原告が立つてさらに忌避を申し立てた。その発言は左のとおりである。「裁判官は、逮捕が政治的な弾圧であると考えるかどうかは根本的には世界観の問題に帰着する。被告人、弁護人が逮捕を政治的と考えるのは裁判官とは異つた世界観に基づいてそう考えるものである」という趣旨のことをお述べになつた。ところで、本件の被疑事実には「被疑者は日本共産党中央委員会学生対策部長であるが」とうたつてある。もし裁判官のような立場で世界観を基準にして事件の当否の判断をするのでは本件では初めから公平な裁判は期待できない。裁判官は明らかに政治的な偏見をもつて裁判に臨んでいるものであつて、本件のような事件を公平に裁判する能力がないものと思う。本件勾留状には被疑事実第二として公務執行妨害、傷害の事実があげられているが、そのご被疑者は起訴され、公訴事実にはこれがあげられていない。勾留理由は、勾留当時と現在時との理由をあわせて開示すべきである。裁判官は勾留継続の理由は開示する必要がないといわれるが、これでは裁判官は勾留の要件をすべて慎重に検討したのかどうか疑わしい。裁判官は偏見をもつているために、すべての要件を慎重に検討する能力がないのではないかと思われる。次に裁判官は勾留理由開示手続について本日の法廷で見解を示されたが、これは多数の学説に反して極端に被疑者、被告人に不利益に、すなわち極端に人権を制限するように解釈している。これでは裁判官は憲法と刑訴法をその精神に従つて解釈する能力がないように思われる」かように述べ終つたとき、同判事は原告に対し今原告は侮辱的な能力がないという言葉を用いたが、これを取り消すかと問うた。原告は「私が「能力がない」と申しあげたのは、裁判官に一般的に能力がないという意味ではなく、この事件について公平な裁判をしようという態度が全く期待できないという趣旨を述べようとしてそのような表現をしたものである。裁判官がお考えになるような意味で述べたものではない」と述べ、原告の用いた能力がないということばは世間にいわゆる無能力呼ばわりということばの意味で用いたのでないこと、自分が用いた能力がないという意味は、事件即ちハガチー事件について公平な裁判を期待できないという意味で用いたものである旨明らかにした。それは能力がないという語は誤解を招くおそれがあり、裁判官がいわゆる無能力呼ばわりの意味に解されるのでは困るから、そのように解される余地があるというのであれば、取り消してもよいという気持を含んでいたのである。然るに同判事は原告の発言をさえぎり、「それでは取消しにならない。福島弁護人を拘束する」と命じた。原告はかくて当日午前一一時か午後五時まで裁判所の地下室に身柄を拘束された。もつとも原告は、同判事において原告の言つた「能力がない」の意味を誤解していると考え、午後一時頃岡林辰雄を通じて、能力がないという語は誤解されるおそれがあるため取り消す旨同被告に申し出たところ、これを書面にして提出すべき旨の同判事の要望にしたがい、右岡林においてその旨の書面を同被告に提出したので、ここにおいて同判事は原告の取消の意思表示を受領した。

同日午後五時頃原告は法廷に連れ戻され、制裁裁判が行なわれたが、その際原告の補佐人となつた岡林辰雄に対しては何ら弁明意見陳述の機会は与えられず、殊に原告の発言の真意を立証すべき録音および速記録の取調べの請求を拒絶された。原告はそこで何か言うことはないかと同判事に尋ねられて「私は裁判所を侮辱しようと考えたことはなかつたし、また実際に侮辱しなかつた」旨述べた。しかし、同判事は、原告に対し、原告が、前示法廷において前記忌避の申立をなし、その忌避の理由を陳述するに際し、裁判官の警告を無視し、「裁判官は偏見を持つている外、裁判官として能力がない。裁判官として被疑者を勾留するについて要件が充たされているかを判断する能力がない。」「裁判官として人権を拘束する場合に虚心に慎重な判断をする能力を欠いている。」「裁判官は訴訟手続を憲法と刑事訴訟法の精神に従つて解釈する能力がない。」などと発言し、裁判官よりその発言の取消謝罪を要求されても謝罪せず、もつて暴言を発し、裁判の威信を著しく害したものであるとして、法廷等の秩序維持に関する法律二条一項に基づき、原告を監置二〇日に処する旨の決定を言い渡した。かくて原告はそのまま東京拘置所に送られ、昭和三五年八月二八日朝まで身柄を拘束された。

(三)  同判事のなした拘束処分および監置処分は原告が裁判官に対する忌避の理由として述べた「能力がない」という言辞を根拠とするものである。しかしながら、これは被疑者の権益を擁護すべき弁護人の基本的訴訟活動そのものを否認ないしは禁止するか、もしくは直接的な制裁処分の脅威のもとに被疑者(被告人)ならびに弁護人が合理的な範囲において享有する防禦権ないしは弁護権を不法に侵犯するものである。けだし、忌避の申立は、忌避の原因を申立人において陳述することを要する(刑訴規則九条二項)のであつて、そして忌避の申立はもともと当該裁判官が「不公平な裁判をするおそれ」を理由として許される(刑訴法二一条)のである。したがつて忌避の原因は必然的に「具体的事件に関し裁判官個人の適格性すなわち裁判的人格を否定する行為」(田中耕太郎氏、忌避権にかんする論文、法曹時報九巻一号参照)事実の表白とならざるを得ない。すなわち、それは「当該事件にかんする当該裁判官を不信任することの意思表示」であるから、かような忌避原因の陳述内容は当該裁判官にとつて「愉快なもの」ではないのは当然である。それ故忌避原因の陳述内容が―裁判の公正を妨ぐべき客観的状況が存在するとして申し立てられている限り―どんなに当該裁判官にとつて「好ましからざるもの」であると考えられたとしても、その忌避原因の陳述内容のある論理や、言説、言辞をとらえて「暴言」とし、これに対し強権をもつてなんらかの制裁処分に付するが如きはもともと筋違いであり、かくては一方において弁護人が弁護権を全うしようとするに際し、その重要かつ本質的な利益が害されることになり、他方公平を至重とする裁判官による「忌避制度の他殺」という重大な不法を招来することになるのは自明の論理である。忌避を申立てられた裁判官は、忌避原因の陳述内容において、当該事件における自己の裁判官としての適格性の否定の主張がなされたばあいにおいてはよろしく主張に副う忌避原因の存否を冷静にかつ慎重に探索し、検討し、忌避申立に対する決定(刑訴二三条)によるか、あるいは簡易却下の手続によるべきかを選択すべきが相当であり、申立に対するこのような価値判断こそ忌避申立を受けた裁判官としての唯一の正当な権限の行使である。そしてこれ以外の方法による忌避申立人に対する公法上の権力的評価や措置は許されない。けだし、それを許容するときは弁護人の言論による訴訟活動さえもが不断に権力による制裁処罰の脅威のもとに侵害され、弁護人の弁護権の死命を制することになるからである。この意味で、公正な裁判を求めて行なわれた弁護人の忌避原因の陳述内容のある言辞を法廷等の秩序維持に関する法律違反として問議することは根本的に矛盾し、許されない。しかして当日法廷においては原告の同判事に対する忌避申立は適法に行なわれ、かつ忌避原因についても単に「主観的感情や疑惑」ではなく、また「単純な嫌疑」からでもなく、「裁判の公正を妨ぐべき客観的状況の存在」を主張し、挙げていたもので、それはさきにのべたような開示冒頭における「世界観による裁判」の見解表明、判例ならびに実務上の慣行からは極めて少数の異見といわれる質問の禁止、意見陳述時における裁判の非公開、相当の理由のない意見陳述の書面による提出要求ならびに捜査が一段落し、被告人長谷川浩は起訴せられたが勾留状記載の罪は起訴せられていないに不拘、なお当初の罪名をもつて勾留を継続し、而も勾留の必要性を具体的に説明しなかつたことなどは少くとも「偏頗を推測するに足る客観的事情の存在」として明白であつた。原告はそれらの事実をあげ忌避の理由を極めて真面目に述べたのであつて、裁判官を嘲笑したり侮辱したり、個人的罵倒をなしたりしたものでないことは、その発言内容全体を見れば極めて明白なのである。而も原告は一旦忌避理由を述べた後「能力がない」という表現がいわゆる「無能力呼ばわり」をする場合の能力がないという意味に誤解されるおそれのあることに気がつき、その意味でのべたものでないことを明らかにするため「能力がないと申しあげたのは裁判官に一般的に能力がないという趣旨ではなく、本件について公平な裁判をしようという態度が期待できず不適正な判断をするおそれがある趣旨を述べようとしてそのような表現をしたのである。裁判官がいわれる「いわゆる能力がない」という趣旨で申しあげたのではない」と釈明したのであるから、もはや発言全体から原告の真意を探究するまでもなく、いわゆる侮辱するさいに用いる無能力という意味で述べたのではないことが明らかになつたのである。原告の用いた言葉は誤解されるおそれのある言葉であつたという限りにおいて、それは原告の表現が拙劣であつたと言えるかも知れない。しかしながら誤解のないよう説明したのであるから、原告が裁判官を無能力呼ばわりし侮辱したということは事実を曲げることであり、また「取り消します」とすぐに述べなかつたから侮辱であるというのであれば揚足取り以外何ものでもない。ところで原告は裁判所地下室において自己の言葉を同判事が誤解していると考えたので前記の如く岡林を通じて能力がないと言つたことを取消したのである。原告の法廷における言辞の意味は一層明らかである。もはや法廷等の秩序維持に関する法律による制裁事由に当るべき裁判の威信を害した行為の存しないことは明らかである。仮りに百歩を譲り原告の表現が真意に反して誤解されるおそれがある言葉を用いたとして、その表現の拙劣自体が問わるべきであるとしても、その場でその意味を説明していたのであるから、仮りに裁判の威信を害したとしても、その程度は極めて軽微である。決して同法律二条の構成要件にいう「裁判の威信を著しく害した」ものではない。以上の理由により同判事の拘束ならびに監置処分は同法二条に該当しないにもかかわらず、同判事の故意または過失により同条に該当するものと誤認してなされたものであつて違法である。

仮に原告の「能力がない」という言葉を述べたことが同法二条に該当するとしても、原告の右行為は、同法に規定する最高刑である監置二〇日の制裁に相当する最極悪行為ではない。同条はその制裁として二〇日以下の監置もしくは三万円以下の過料に処すべき旨を定め、その範囲内の裁量権が裁判長に与えられている。しかしながら、犯罪と刑罰はつり合つていなければならない。本件の場合、原告の言辞に対し同判事は監置処分の最高の制裁を言渡した。果して原告は監置処分の最高の罰即ちこれ以上の極悪行為はないという行為をなしたのであろうか。決してそうでないことは既に述べたことより明らかである。窃盗罪については最高刑一〇年であるが、懲役一〇年の言渡に相当する窃取行為を想像されたい。そのような事案はよくよくの極悪の場合である。本件制裁裁判の決定書中に原告は「裁判官の警告を無視して……の能力がない」旨述べたと記載されている。しかし原告はその警告をきいていない。そのことを知ったのは東京拘置所でこの勾留理由開示法廷に出席していた弁護士と面会をしたときその弁護士から聞いたのが始めてである。それは原告の忌避理由陳述中最初に能力がない旨発言したとき「弁護人は言葉に注意して下さい」と同判事が言つたのだそうであるが、その声が小さかつたことと原告自身一生けんめいに発言していたので原告自身の声量のある声に消され全然気がつかなかつたのである。この注意に気がついたのは出席弁護人六人中四人である。また決定書中に「発言の取消や謝罪を要求されたが謝罪せず」とあるが、取消要求や謝罪要求はなされてない。唯取消す意思の有無を質問されただけであり、それは事実上の勧告と解されるものであつた。しかして忌避の理由はそれが申立を認容されるために最も適切な言葉でありかつそれが真面目に述べられたものである限り、取り消す必要はなく、また本件においては原告の真意と誤解されるおそれがあることに気づき、その真意を釈明したのであるから、「いわゆる能力がない」という言葉を発したことにならないのであつて、取消の必要はないのである。さらにそれでもなお原告は誤解されたと知つて地下室に拘束された後岡林弁護士を通じ正式に取り消しているのであるから、制裁裁判当時は取消されていたのである。およそ国家の機関が一定の裁量権を与えられている場合にも、その裁量権の行使は条理上一定の制約が存する。故に裁量権の行使が著しく公正を欠いた場合は裁量権の乱用として違法である。本件において注意して原告の態度を見ていれば一回の警告に原告が気がつかなかつたことが看取されたかも知れない。その場合は原告の発言を一旦中止させたうえ警告をなすべきであつた。またそれにもかかわらず原告が不当の発言をやめないとすれば、発言中止をさせることもできた筈であり、また発言が終つた後の原告の釈明をきいている中他の同席者は原告は取り消すつもりなのだなと思つたというのであるから、もつと慎重に取消を求むべく、また原告をして発言させるべきであつた。然るに原告の発言が終らないうちに、それでは取消と認められない、拘束すると叫んだのは冷静を欠くものである。また退廷命令等段階に応じ取るべき処置はいくつもある。監置処分はこれらの処置に全然従わないときに始めて用いられるべきである。逃走のおそれのない弁護士を制裁裁判まで地下室に拘束したことも全くの行過ぎである。同判事はこれらの処置を経ずいきなり監置処分をした。しかもその罰は最高刑の監置二〇日である。本件において最高刑に処すべき事由はない。それは単に裁量の程度を誤つたというものでなく、明らかに原告に対する意識的攻撃の意思が看取される。その裁量は同判事が著しく感情に走つたか、あるいは裁判所としての立場を放棄し、弁護人の相手方としての立場に入り、自己の有する権利のすべてを使駆し、最大限に相手方をやっつけるという意思を実現したかのいずれかとみるほかない。それは著しく公正を欠いた裁量であり、職権の乱用であつて違法である。

(四)  原告は拘束命令により法廷を出されたため、被告人長谷川浩に対する固有の弁護権を侵害され、またその拘束命令は公開の法廷で行なわれたため同時にその名誉を侵害され、さらに約五時間身体を拘束された。右弁護権の侵害および名誉の侵害による各精神的損害は多大でかつ算定困難であるが、弁護権行使中の発言を問題にされた点で異例であり、すくなくとも弁護権の侵害による損害は金一〇万円を、名誉の侵害による損害は金五万円を身体拘束による損害は金一〇万をこえるものである。また原告の制裁裁判により監置二〇日の言渡を受け、二〇日間監置され、その間弁護士としての業務を妨害され精神的に大きな打撃を受けたが、右監置処分による精神的損害は金五〇万円を下らない。故に原告のこうむつた全損害額は金七五万円である。

(五)  被告飯守は被告国の公務員たる右判事としてその公権力の行使につき原告に対し故意または過失により前記各違法処分をなして損害を生ぜしめたものであるから、被告飯守は民法七〇九条により、被告国は国家賠償法一条により、連帯してその賠償に当る責任がある。

そこで、原告は、被告飯守に対し、右損害金七五万円およびこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和三五年一〇月四日から支払ずみまで民法所定年五分の遅延損害金の支払を求め、被告国に対し、右損害金七五万円およびこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和三五年一〇月二日から支払ずみまで民法所定年五分の遅延損害金の支払を求める。

四、請求の原因に対する被告らの答弁ならびに主張

(一)  原告が東京弁護士会所属弁護士、被告飯守が被告国の東京地方裁判所判事であるところ、昭和三五年八月八日東京地方裁判所刑事第一四部法廷(東京簡易裁判所庁舎民事二号法廷)において被告人長谷川浩に対する暴力行為等処罰に関する法律違反等被告事件につき同被告人に対する勾留理由の開示期日が開かれ、同判事がこれを担当して列席し、原告が弁護人として他の弁護人岡林辰雄、安達十郎らとともに出頭したこと、同判事が右開示期日の法廷において法廷等の秩序維持に関する法律に基づき原告を拘束させたこと、ついで同判事がその主張のような制裁裁判により原告を監置二〇日に処する旨の決定を言い渡したことは認めるが、その余の原告主張事実はすべて争う。

(二)  原告がその不当な発言について同判事からその取消を求められるに及び、原告主張の趣旨にも解しうるような弁疏をしたことは認める。しかし原告が同判事の面前においてした発言の経過は次のとおりであつて、これを通じてみるときは、原告の右弁疏は単に弁疏たるにとどまり、問題の発言内容は本件監置決定において同判事が認定し摘示したとおりにこれを解してなんら不当の点はなく、したがつて当該決定に原告主張のような事実誤認はない。

発言の経過

福島弁護人

弁護人福島ですけれども、私からも忌避の申立をいたします。忌避の一つの理由は、不公平な裁判をするということでありますけれども、その一つの理由は、岡林弁護人からも言われましたけれども、政治的偏見に基づいては、公平な裁判を行なうことができないわけであります。(中略)裁判官として公正な判断をする気持がもはや全然持つておられない、最初から予断をもつてこの勾留に当つているということがこの公判廷においてすでに暴露されている。それが一つの理由であります。それからもう一つは、裁判官はその政治的な偏見を持つていると同時に、それ以外にも裁判官としての能力がないと私は思うのです。能力がないというのは、虚心に、慎重にこの被疑者を勾留するに当たつて、

裁判官

言葉を気をつけて下さい。

福島弁護人

法律の

裁判官

言葉を気をつけて下さい。

福島弁護人

法律のですね定めている要件が充たされているかどうかということを判断する能力がない(中略)勾留理由の開示というものは、勾留された当時の事情もそれは当然に理由として述べられなければならないわけですけれども、それと同時に現在この段階においていかなる理由があるかということもあわせて述べられなければならないというふうに私どもには考えられるのです。現にそういう見解を打ち出している学者も相当おるわけです。それにもかかわらず、全くそういうような段階を考慮することなしに、漫然と警察官に対して公務妨害をしたとか、そういうような被疑事実をうたつて、それを勾留の理由にしている。これは裁判官として虚心に、慎重に、人権を拘束する、人権を制限する場合に、慎重な判断をする能力を欠いているんだというふうに私は考えるわけです。それからもう一つは、やはり裁判官は、訴訟手続を憲法と刑事訴訟法の精神に従つて解釈する能力がない。これもやはり一つは不公平な裁判をするおそれの非常に大切な理由であると思います。(中略)極端に被疑者に不利なように人権が制限されるように、最も不利なように解釈をして人権を制限しているわけです。これは憲法の精神に従つて法律を解釈していないわけです。裁判官の能力がないんだという私の考え方です。以上三点の理由についてあなたはここで裁判官として不公平な裁判をするおそれがある。以上によつて忌避します。

裁判官

あなたは、裁判官としては能力がないといいましたね。その発言は取り消しますか、取り消しませんか。裁判官に向かつて謝罪しますか、しませんか。

福島弁護人

能力がないと言つたのは、一般的に能力がないと言つたのではなくて、この法廷の、つまりこういうふうに一定の、今はもうすでに起訴されている段階で、こういうような、すでに現在起訴されていない事実について、それを黙過している。そういうことは、やはり慎重な判断をする態度に欠けていたという趣旨で、そういうことを申しあげたので、決して裁判官が一般的能力がないという趣旨で申しあげたのではないのです。この当勾留開示に当つて、慎重な判断をする態度に欠けていたというふうな趣旨で申しあげたのです。ですから一般的な意味で、ないと申しあげたのではないのです。

裁判官

それは取消しになりません。それは裁判官に対する暴言であると。

福島弁護人

一般的なそういう意味でならば取り消しますが、そうでなくて。

裁判官

裁判官に対する暴言と認めて福島弁護人を拘束します。

右の発言経過に徴して明らかなとおり、同判事は再度にわたつて原告に対し発言内容に留意するよう警告を発し、かつ不当な発言の撤回を期待してその機会を与えたにもかかわらず、なお原告は弁疏に終始して発言の取消を拒み撤回の措置を採らなかつたものであるから、当該決定につき原告主張のような事実誤認のないことは明らかである。

(三) 公権力の行使に当る公務員の職務行為に基づく損害については、国又は公共団体が賠償の責に任じ、職務の執行に当つた公務員は、機関としての地位においても、個人としても、被害者に対しその責任を負担すべきものではないから、原告の被告飯守に対する本件損害賠償の請求は理由のないものとして排斥すべきである。

五、右に対する原告の反論

(一) 被告飯守に対する請求権の根拠は民法七〇九条である。同被告の本件不法行為が職務行為の外形をとり、ないしは職務行為にあたるとしても、右事実は何ら同被告に対する本件請求を妨げるものではない。

一般に法人の機関の不法行為は法人の行為を組成する一面とその個人の行為たる一面との二面の存在を有するものであり、不法行為責任も団体の責任と個人の責任の二つを生ずる。そして両者に対する損害賠償請求権は競合し、その間の関係は不真正連帯と解される。そして法人の機関の行為の二面性はおよそ法人の性質に基づくものである以上、私法人たると公法人たるを問わず、したがつて国の機関たる公務員の行為についても当然認められるところである。

(二) 国家賠償法一条は、憲法一七条の規定を承けてこれを具体化したもので、同条の精神を明確にし、公務員の行為に基づき国が負担する自己責任を定めたものである。したがつて、国家賠償法一条は、公務員個人の責任とは本来無関係な規定であり、公務員個人の責任を排除したものではない。公務員個人には当然民法の不法行為の原則規定が適用されるのである。

(三) しかるに、公務員の職務行為による損害の賠償請求について公務員の責任を否定する学説判例があるけれども、これらはいずれも承服しがたいものである。

戦前明治憲法下のわが国においては、絶対主義的天皇制のもとに公権力の行使については国家無責任の原則がとられ、官吏の職務行為と認められる限り、当該官吏個人に対する請求も認められていなかつた。かかる制度が諸国の立法に例をみない程国家の絶対的専制的地位を認めたものであることはいうまでもない。しかし、敗戦によりわが国は、民主主義的司法国家として発足し、日本国憲法一七条により国は公権力の主体としての特権的地位を捨て、私人と同一の責任を負うに至つた。すなわちさきの国家の絶対的地位を抛棄させ、その結果国家無責任の原則の拡張であつた官吏個人の無責任制も廃止し、公務員個人の責任は民法の規律の下におかれることになつた。したがつて、旧憲法下の法制上必要最小限の例外規定であつた公証人法六条、旧戸籍法四条、旧不動産登記法一三条および民訴法五三二条は、いずれも日本国憲法一七条の規定の下に制定された国家賠償法付則により当然不要の規定として廃止され、一般法である民法の規定に解消されたものであつて、右規定廃止をもつて公務員個人の損害賠償責任が一般に免責されたものと解すべき余地は全く存しない。

また、実質的にみて、国家賠償法により被害者は経済的に充分満足を受けるから、公務員個人の責任を問う必要はないという見解もある。しかし、現行法上損害賠償の方法として金銭賠償以外に謝罪広告が認められていることからも明らかなように、とくに本件のように精神的損害に対する賠償が中心になつている場合において、単に国の責任のみを認め、加害者たる個人の責任を認めないときは、被害者の保護としては不充分といわなければならない。不法行為の被害者は本来加害者に対し損害賠償請求権を有するものであつて、何らの理由も必要もないのに加害者たる公務員の免責を認めることは、不当に公務員を保護し、被害者の権利を奪うものというべきである。

しかのみならず、違法行為を行なつた公務員を職務行為の名の下に保護しようとすることは、まさに旧憲法下の天皇制絶対主義国家における官吏の絶対的地位を現在においてそのまま認めようとすることであり、国民により選定され、罷免される公僕としての公務員とははるかに遠い特権官僚の地位を固めようとする企てである。旧憲法においてさえ、学説の多くが故意重過失の場合公務員個人の責任を肯定し、判例も形式上職務行為に属するものについても職権を乱用し、故意に他人の権利を侵害する場合については官吏の責任を認めていたのに対し、現在の判例によれば、このような場合でも国家賠償法が適用される結果公務員個人は免責されることとなるべく、その不当性はあまりも明瞭である。かように公務員個人の責任を否定する判例は、公権力の行使による損害につき国民の権利の擁護、拡張を目的とした憲法一七条の精神に反し、同条の下に規定された国家賠償法一条を不当に解釈して国民の正当な権利を奪うばかりでなく、公務員に不当の特権を認めることにより憲法一四条の法の下の平等の原則にももとり、とうてい許されない。

なお、判例と同様の結論をとる学説によれば、国家賠償法はドイツ法と同じく公務員の行為について国のいわゆる代位責任を定めたものとされる。しかし、ドイツにおいては一九一〇年のライヒ責任法が明文をもつて国の代位責任を規定し、これがワイマール憲法を経てボン憲法に引継がれたのに対し、わが国の国家賠償法においては、ドイツと異り、国が公務員に代つて責任を負うと解すべき条文上の根拠を欠く。また国家賠償法が国の当該公務員に対する求償権を規定していることをもつて判例を支持する理由とする向があるが、しかし同様の規定である民法七一五条三項にもかかわらず、使用者責任が被用者責任を排除しないことからみて、右支持理由はあたらない。

以上の理由により、原告は、被告国および被告飯守の双方に対しそれぞれ損害の賠償を請求する次第である。

六、証拠≪省略≫

理由

原告の被告国に対する請求について

被告国は、本案前の抗弁として、原告の本訴請求は被告飯守が東京地方裁判所判事として昭和三五年八月八日原告に対し法廷等の秩序維持に関する法律により科した制裁としての監置の決定(およびその保全処置としての拘束)が違法であることを原因とするものであるところ、右監置の決定については、原告が東京高等裁判所に対し抗告の申立をしたが、東京高等裁判所刑事第四部が同年八月一八日右抗告を棄却する旨の決定をし、さらに原告が最高裁判所に対し特別抗告の申立をしたが、同年九月二一日最高裁判所第一小法廷において右特別抗告を棄却する旨の決定をし、当時右決定が確定した以上、右の確定裁判たる監置の決定(および拘束)をあらためて本件訴訟において違法と認定することはできないものと解すべきであるから、本訴請求は、すでにこの点において失当たるを免れず、速かにこれを棄却すべきであると主張する。

しかしながら、憲法第十七条に由来する国家賠償法はその第一条においてひろく国の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行なうについて、故意または過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国がこれを賠償する責に任ずる旨を規定し、ここにいう公務員が裁判官であり、当該行為が裁判権およびそのためにする権限の行使である場合をなんら除外してはいないのであるから、裁判官による権限の行使を違法として同法にもとづく国家賠償請求の訴があつたときは、受訴裁判所は当然これについて審判すべき権限と義務を有するものというべきである。この場合当該裁判官のした権限の行使が裁判そのものであり、右裁判が当該手続において確定し、もはやこれを争うべからざるものとなつたとしても、右裁判を違法として国家賠償法にもとづく訴を提起することは、これにつきなんら実定法上の制限をもたないわが法制の下では、あえてこれを禁止すべき理由はないと解するのが相当である。けだし、さきに確定した裁判と後の訴によつて求められる裁判とは、両者全くその目的を異にし、その対象を異にするのであり、さきの裁判において確定したところと後の裁判において確定すべきところとは全く次元を異にするものというべきであるからである。このことはさきの裁判が民事、刑事の裁判であると、あるいは法廷等の秩序維持に関する法律による制裁裁判であるとにより別異に解する必要はない。もちろん一般に裁判権の行使および裁判作用の特殊性は国家賠償の審判にあたり十分に考慮されるべきこと、後の裁判においてさきの裁判において確定したところと別異の判断をするにはとくに慎重たるべきことが要求されることは、これを肯定すべきものであるが、これ事実上の問題に過ぎず、そのために右の結論を左右しない。

原告の本訴請求においてその主張の制裁裁判が違法であるか否かは、本件訴訟のいわゆる先決問題たる判断事項に属するものであり、前記確定裁判がなんら内容的に本訴を拘束するものでなく本件訴訟において当裁判所は独立にこれを判断しなければならないと解すべきである。被告国の右抗弁は採用することができない。

そこで、本案につき判断する。

原告が東京弁護士会所属弁護士、被告飯守重任が被告国の東京地方裁判所判事であるところ、昭和三五年八月八日東京地方裁判所法廷において被告人長谷川浩に対する暴力行為等処罰に関する法律違反等被告事件につき同被告人に対する勾留理由開示期日が開かれ、同判事がこれを担当して列席し、原告が弁護人として他の弁護人岡林辰雄らとともに出頭したこと、同判事が右開示期日の法廷において法廷等の秩序維持に関する法律によつて原告を拘束させ、ついで右法律にもとづく制裁裁判により原告を、右開示期日の法廷において同判事に対する忌避の申立につきその理由を陳述するに際し、同判事に対し「裁判官として能力がない」などと暴言を発して裁判の威信を著しく害したものであるとして、監置二〇日に処する旨の決定を言い渡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

ところで、証人岡林辰雄の証言、原告本人尋問の結果(ただしいずれも後記採用しない部分を除く。)検証の結果ならびに本件口頭弁論の全趣旨をあわせると、つぎの事実を認めることができる。すなわち、右開示期日の公判廷において、告知された勾留理由に対する質問を許さず、かつその意見の陳述に代え意見を記載した書面を提出すべきことを命じた同判事の訴訟指揮に対し弁護人らから異議の申立があつたが、いずれも棄却されたので、弁護人らは相ついで同判事に対する忌避の申立をするにいたつた。原告は、弁護人岡林、同寺本につづいて起ち右忌避の申立をしたがその原因として「一つの理由は岡林弁護人からもいわれましたけれども、政治的な偏見に基づいては公平な裁判を行なうことができないわけであります。この勾留開示公判でも若干その事実が出ているわけですけれども、(中略)これは当然裁判官として公平な判断をする気持がもはや全然もつておられない。最初から予断をもつてこの勾留に当つているということがこの公判廷においてすでに暴露されている。それが一つの理由であります。それからもう一つは、裁判官は、その政治的な偏見をもつていると同時に、それ以外にも裁判官として能力がないと私は思うのです。能力がないというのは、虚心に慎重にこの被疑者を勾留するに当つて(ここで同判事が「言葉に注意して下さい」との注意をくりかえし言つたが)法律の定めている要件が充されているかどうかということを判断する能力がない。(中略)勾留理由の開示というものは勾留された当時の事情も当然に理由として述べられなければならないわけですけれども、それと同時に現在この段階においていかなる理由があるかということもあわせて述べられなければならないというふうに私どもには考えられるのです。現にそういう見解を打ち出している学者も相当おるわけです。それにもかかわらず、全くそういうような段階を考慮することなしに漫然と警察官に対して公務妨害をしたとか、そういうような被疑事実をうたつてそれを勾留の理由にしている。これは裁判官としては虚心に慎重に人権を拘束する、人権を制限する場合に慎重な判断をする能力を欠いているんだというふうに私は考えるわけです。それからもう一つは、やはり裁判官は訴訟手続を憲法と刑事訴訟法の精神に従つて解釈する能力がない。これもやはり一つは不公平な裁判をするおそれの非常に大切な理由であると思います。それはたとえばこの法廷でもすでにあらわれているように勾留理由開示において制度の趣旨を極端にですね、極端に被疑者に不利に解釈をした態度をずつと打ち出してきているわけです。(中略)これは憲法の精神に従つて法律を解釈していないわけです。裁判官の能力がないんだというふうに私は考えるわけです。以上の三点の理由によつてあなたはここで裁判官として不公平な裁判をするおそれがある。以上によつて忌避します」と述べた。そこで同判事は、「あなたは、裁判官として能力がない、といいましたね。その発言は取り消しますか、取り消しませんか。裁判官に向つて謝罪しますか、しませんか」といつて、原告にしばし機会を与えて任意に右発言を取り消して陳謝の意を表すべきことを期待したが、これに対し原告は「能力がないといつたのは一般的に能力がないといつたのではなくて、この法廷の、つまりこういうふうに一定の、いまはもう起訴されている段階で、こういうようなすでに現在起訴されていない事実についてそれを黙過している。そういうことはやはり慎重な判断をする、そういう慎重な判断をする態度に欠けていたという趣旨で、そういうことを申しあげたので、決して裁判官が一般的能力がないという趣旨で申しあげたのではないわけです。慎重なる判断をする態度にこの勾留開示に当つて欠けていたというふうな趣旨を申しあげたのです」といつて、せつかく与えられた右発言の取消ないし陳謝の唯一の機会に応じることを肯んじないで無為にこれを見送り、かえつて不得要領な弁明に終始した。かように認められ、証人岡林の証言および原告本人尋問の結果中右認定に牴触する部分はにわかに措信することができない。右事実によつてみれば、原告が同判事に対する忌避の原因の陳述中において同判事につき裁判官として能力がないといつた部分は、いかに忌避原因の陳述内容であるとはいえ、その正当な範囲をふみはずした不穏当な言動であつて、右開示期日の法廷に右言動をもつて臨んだ原告の所為は、もとより適法な忌避原因の陳述の範囲を逸脱し、法廷等の秩序維持に関する法律二条一項後段に該当するものというべきである。したがつて、原告が右法条に該当する行為者として拘束され、ついで本法による制裁を科する裁判に付されたことにならん違法はないといわなければならない。原告の右所為は適法な忌避原因の陳述にすぎず、右法条に該当しない本来対象外の行為で、なんらの制裁をも科せられるべきでないという原告の主張はとうてい採用できない。

さらに、原告は、かりに本件所為が右法条に該当するとしても、本法に定める最高限の制裁である監置二〇日を科したことは、とりもなおさず本法による制裁権を乱用したものとして違法たるを免れないと主張する。しかし、本法による制裁は従来の刑事的行政処罰のいずれの範疇にも属しないところの本法によつて設定された特殊の処罰であり、本法によつて裁判所に属する権限は、法廷等の秩序を維持し、裁判の威信を保持し、もつて民主社会における法の権威を確保することが最も重要な公共の福祉の要請の一であることに由来するものであることにかんがみ、裁判所または裁判官の面前その他直接に知ることができる場所における裁判所侮辱的な言動つまり現行犯的行為に対し裁判所または裁判官によつて、それを厳格適正に行使することは、裁判官の権限たると同時に、その職務上の義務に属すると解すべきであるから、本件飯守判事において自己の識見、信念に従い、本件行為者たる原告を監置二〇日に処するのが相当であると判断した以上、本件制裁裁判につき制裁権の乱用があるとはいえない。したがつて、原告の右主張もまた理由がない。

そうすると、原告の被告国に対する本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、すでに理由のないことが明らかである。

原告の被告飯守重任に対する請求について

同被告の本案前の抗弁は窮極において被告国の本案前の抗弁と同趣旨に帰着するものというべきところ、裁判官のした裁判を違法として当該裁判官に不法行為による損害賠償を命ずる裁判を求める場合にあつても、かかる裁判官に法律上個人として損害賠償責任があるかどうかはしばらく別として、さきの裁判と後の裁判との関係については被告国の本案前の抗弁について判断したところと同一であり、さきの裁判の確定したこと、さきの裁判の特殊性等の故をもつて後の裁判を拒否し得べきものでないといわなければならないから、この点の右被告の本案前の抗弁は理由がないが、原告の同被告に対する請求は公権力の行使に当る同判事が職務行為としてした右制裁裁判およびこれに附随する拘束処分を違法として同判事に損害賠償を請求するものであることは主張自体から明らかであり、かような場合は国が自らその損害賠償の責に任ずるほか、当該職務の執行に当つた公務員は国の機関たる地位においても、個人としてもその損害賠償責任を負担するものではないと解するのが相当である。この点の原告の主張は採用することができない。仮りに当該公務員個人に賠償責任を認めるべしとの説に従うとしても、本件において同判事が原告に対してした本件制裁裁判を違法とし得ないことは原告と被告国との間の関係において判断したところと同様に判断し得るところである。しからば同被告に対する原告の本訴請求は、その余の点について判断をするまでもなくそれ自体失当として排斥を免れない。

結び

よつて原告の本訴請求をいずれも理由のないものとして棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 浅沼武 裁判官 中川幹郎 裁判官 荒木恒平)

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